昭和52年11月05日 朝の御理解



 御理解 第2節
 「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すれば誰でも受けることが出来る。みてる(尽きる)ということがない。」

 昨日神愛会でありましたから、先生方遠方から見えておられる先生方もいくらもありまして、有難い信心研修が出来ました。中で末永先生がこう言う事を言っておりました。私もう忘れておりましたが、成程そうだなあとまた改めて思ったんですけれども、ここ四、五日この願の信心だと、合楽の信心はここにもう一段大きな飛躍を遂げる時期が頂けたような気がする。それは願の信心。
 願というても時々参ってきて、「お願いのある時だけお参りして済みません」とか、「もう本当にお頼みばっかりですみません」と言う願ではなくて、親なればこそ子だからこそ、願わずにはおれんという信心。と言う言がまあ、いろんな角度から説かれます。説かれております。それでこのことは、もう本当にある意味合いではお詫びに撤し、又は御礼に撤し、御礼やらお詫びやらの信心が出来て、その上に今合楽で言われておる願の信心というものに進んでくるんだと。
 これは玉水の湯川先生が言われた事だと言う事を佐田先生が言っておりましたが、甘木あたりの信心は「御礼の信心」。願が三分で御礼が七分と言われる程しの信心でしたが、それとても「御礼の信心」は必ず行き詰まると言う事を言っておられたそうです。その意味がわからなかったです私は。確かに御礼さえ言うておれば。所がその信心が、段々高度化して参りますとね、確かに行き詰まるようです。行き詰まると言う事が、次の信心に飛躍していく段階であってね。
 「御礼の信心」といったら。それは神様に通ずるとか、通うとかと言う事だけならね、もう徹底して御礼を申し上げるなら、神様に通わないはずはない。お詫びでもそうである。もう本当に高橋正雄先生の信心をお詫びの信心といわれておりましたが、もうお詫びに撤するという、人間自分というものを分かったら、お詫びせずにはおれないことになって参りましょう。だからお詫びによって、なら神様に通ずると。御礼によって通ずると。まあ確かにそうです。願によって通ずると。
 だから通ずると言う所では同じですけれど、お互いの信心が段々、一段一段、段を進めてまいりますとです。もう御礼・お詫びというものは、後の願いが先であり、願いが心であると言う事になる。「願いの信心」というのはそういう素晴らしいと言う事をいっておるのだけど、末永先生が言っておるのを聞いてから、私がまだ合楽で修行中の時分にも、何年前でしたか、「願いの信心が一番だ」と先生が言われましたことがありました。という話をしてました。
 皆さんも記憶しておられるかも知れません。「ほんにそげん言やあほにそんな時分があったね」と言う事でしたけれども、それはどう言う事かというと、神様の願を受けて立たしてもらう願いだというんです。神様が願うておられることを私共も願うという「願の信心」。これが最高だと言う事を親先生が言うておられたが、その願いの信心に、最近言われる、願わずにはおられない。すがらずにはおられないという信心になった時に、願いの信心が完璧だという意味の話をしてました。
 親神様の願いというのはどう言う事かというと、私はまあ端的にいうと、ここでいう「五つの願い」だと思うんです。体の丈夫を願う。家庭不和の無きが元を願う。また、子孫繁盛家繁盛を願う。どうでも本当の本当の御用をさせて頂きたいという願い。お役に立ちたい立ちたいという一念が、神様の手にも足にもならして下さいという願い。この「五つの願い」は、もうどれをとっても言うなら神様の願いなんです。
 「氏子信心しておかげを受けてくれよ」というのは、どういうおかげかと言うと、「信心してどうぞ、家庭円満のおかげを頂いてくれよ。健康の元を頂いてくれよ」「お前の一代じゃいかん。それこそお徳を受けて子孫にでも残るような、家繁盛子孫繁盛のおかげを頂いてくれよ」「日勝り、月勝り、代勝り」と言われる、「その代勝りのおかげを頂けるような信心を受けてくれよ」と言うのが神様の願いなんです。
 その上に、私共段々信心を分かってきてです。言うならば、本当に神様の心の叶うような御用をさせて頂きたい。そしていよいよお役に立ちたい立ちたいという一念がです。なら、神の手足にもならせてもらおうという程しの願いなんですから、これは私共の切実な願いであると同時に、天地金乃神様のまた、切実なる願いですから、これが一致するわけです。だから、神様の願いに応えての「願いの信心」と。だからその今の「五つの願い」だけのことじゃありますまい。
 まだいくらもありましょう。あります「神様の願いに応えての願い」と言う事を、まあ数年前にそういう御理解頂いとったとこう言う。本にそう言やそうだし、また事実その通りだと言う事。と同時にそれなら今、合楽で言われておる、願わずにはおられないという、これはもう痛いこと、かゆいことに至るまでが願わずにはおられない。縋らずにはおれない。それは天地金乃神様という方は、私共の言うならば、大親神様であると言う事、が分かれば分かる程、縋らずにはおれないと。
 西岡先生がこういう質問を致しておりました。今沢山西岡先生ところには、今八十名位の人があそこへ、ここへ御参りをしてきたら、西岡先生の話をやっぱ頂いて帰る。または、色々電話で御取次を頂くのに、直接私よりも西岡先生にお願いをして、西岡先生から御取次を頂いてもらうという人達が、言うならば先生ファンが沢山増えたと言う事なんです。それは本当にあのう御広前も助かるし、信者さん方も便利なんです。
 もうこんなことまで親先生にお願い出来んて言った様な事やら、お話が聞かれんと言った様な時でも、あそこへ行って色々聞きますからね皆が。その中にまあ色々私共のように、ほとんど遠方の方が多いです。「遠方の者は、しげしげと日参り、夜参りすることも出来ません。どういう信心させて頂いたら、その真の信心が出来るでしょうか」と言う様な質問が非常に多いという。「そういう信者に対して、私はこういう説明をしているのですが、間違いないでしょうか」とこう言うわけなんです。
 どういうことを言ってるかというと。「なら、あなた方が電話で御届けをする。そん時には、まあ言うならば電話の前で、御結界の前で座っ取る様な積りでです。柏手してから拝むくらいな気持ちがいる。そしてここが御賽銭箱、ここはお初穂をと言う様にね。ちゃんとその手順をして。そして御取次を願われたらどうだろうかと。また日々御参りしたいけど、御参りできない。という人はお日初穂をしなさい。毎日お初穂を奉られて、毎日参っている人は、必ずそうしていく。
 だから毎日でん御参りしたいと本当に思うならばそうしなさい」と、いうふうに申しておりますが、間違いないでしょうか、それでいいでしょうかとこう言う訳なんです。そしたらあのお菓子に「淡雪」というのがありますね、あの「淡雪」を御神眼に頂きましたから、これは「淡雪」というのは、すぐまあ解けて消えるもの。けれどもあのそれでね、淡い言うならば、おかげだけは頂けるだろうねと言う事でした。だからおかげを頂くということには、このくらいの節度は守らなければ駄目だよと言う事なんです。
 小倉の富永さんなんか、やっぱりそうらしいですね。もう電話機の前で柏手打って、こう拝まれる。そしてお賽銭を入れられて、お初穂を包んでそしてモシモシなんです。だからこれは、ある意味では当然の事なんですよね、はあ電話で便利が良いというだけでね、電話なら電話賃だけしかいらんけんて、言う様な事ではやっぱ本当の事じゃなか。やっぱ信心させと貰うなら、その位な行き届いたものがなかなければならん。
 けどもそれはどこまでも、おかげの御取次を願うだけであって、おかげというのは淡雪の様なものだという意味だと思うんです。だから本当真の信心を頂きたい。言うならば真の徳を受けたいというならね、結局やはり教えを本気で行ずる以外にはないんだと言う様な事でした。これは壱岐の末永勇先生が発表しておりましたが、本当に最近はもうやっぱり。本当に合楽の御比礼を頂いておる印、今度帰られて二十九日が御大祭でした。もう御大祭の前ぐらいから、ずうっとこう御参りが多くなるんだそうです。
 それでもう御初穂なんかも、いつものお初穂、御大祭ぐらいにはもうお祭り前にある。あの、お供えを頂いとった。それでもう今度、今まで嘗てない御参りも多ございましたが、御初穂なんかも、今までの数倍のおかげを頂いておる。御参りだけじゃない、お供えもやっぱりそんなふうに、おかげを受けておる。もうそういうおかげを頂いておりますが、そのお知らせに、自分が自転車を一生懸命踏んでいる。そしたら向こうから大きなバスがやってきた。
 それで道を避ける時に、あんまり接触したらならんと思うて、田圃の中に飛び込んだ。そして、その行っておる。ところがいつの間にかそれが単車に変わっておる。と言う所であったとこう言うのです。自転車というのは、ただ自分が一生懸命力んでおるとか、一生懸命踏むとか、そして坂道でもかかるときついわけです。ところが単車ならばです、勿論ただハンドルとるだけで良いし、いわゆる発動機が付いていますから、その発動によって車が進むというのが単車。
 坂なんかでも言うならば平気で、骨折らんですうっと登る事が出来る。だから神様が自転車の信心から単車の信心に移っていけよ、まあ変わって行けよというお知らせだろうとこういうお話でした。熊本の富永先生が、その後またお話になっておりました。それもやっぱし、同じようなこと、そのダイナマイトのあれは導火線ですかね、あれに火が付いておるところを頂いた。
 そしてその後の私は先生の話を聞きながら思った事ですけれども、成程そういう大変な、というか教会にとって大きな問題が次々と起ってくる問題なんかはね、もうそれこそダイナマイトでこう爆破させてからでも進まなければ、人間の力ではもうそこだけで挫折する様な感じがする。それだけで合楽に向こうてくる信心が、こう鈍って来る様な感じ、ここの一つの大きな岩の様なものを、それをあの粉微塵に砕いて、そこから道を新しい道を作っていくと言う様なおかげを頂く為には、やはりダイナマイトがいる。
 やはり神様の御発動が、人間の知恵や力じゃどうにもできない。私はいわゆる、末永先生が発表しました。西岡先生が発表しております。末永先生、富永先生の、四人の先生方の発表をです。私今日の御理解に当てはめて聞いて頂きたいと思うのです。お徳を受けて、信心すれば誰でもおかげが受けられると言う事は、信心のその段階というものが、そのようなふうに追われて行かなければいけんのです。
 末永先生が言っておるのは、もうこれは本当にそういう信心が出来たら、もうそういう信心をするなら、必ずおかげを頂くでしょう。神の願いに立っての信心、そして願わずにはおられないという信心になったらです。大きな神様の御発動を受けるだろう、おかげも受けていけれる。それをなら段階的に言うと、西岡先生がそのあそこにくる信者に話しておられる。信心にはそういう一つの、キチッとした言うならばケジメというか、節度がいるんだと。それは淡雪のようなおかげであってもです。
 はあこういうキチッとした信心にはキチッとしたおかげが受けられるという体験を積んだ上での、言うならばまあ自転車の所でしょうけれども、それがだんだん単車に変わって行く様なおかげを頂かれる。単車から次には大きな、立派な自動車に乗換えると言った様な事も出来ますでしょうね。段々進んでいかなければならない。こういう信心をすれば、誰でも受けられるのであってただ拝みよります。もう何十年て信心しよりますと言うだけで、ならお徳を受けられるということじゃない。
 でないと教祖様が嘘を仰ってる事になる。ならこういう信心いわば信心とは、真心まごころ、信ずる心または神心と、そう言う風に段階を追うた真の信心に進んで行って初めて誰でもおかげが受けられるのである。私は今日ある先生のことをお願いさして貰いよった。そしたら赤ん坊をおんぶしておられる、それが赤ん坊がずん垂れとる。こう下の方へこう。だから手を離しとると、赤ん坊がずん垂れとるから落ちるごたる。
 それで片一方の手でこうやって後をかかえて、それで片一方の手でこう、何かを御用しよんなさるところを頂いたんです。これは先生に限らんで誰でもそうです。本当にどうでもおかげを受けんならん、言うなら赤ん坊というのは、自分が持っておる難儀とかめぐりとかということです。だからその難儀を通して、それを育てていくとです。めぐりと思ておった、そのめぐりのために難儀をしておりますけれども、その難儀がだんだん育って参りますとです。
 それが大きくなって二十歳になり、二十五になる頃になると、今度は親を見てくれるようになります。言うならばめぐり様のおかげで徳を受けた。めぐり様のおかげでいうなら力を得たと言う事になるわけです。皆が、だからそういう難儀を背負っておるわけですけれども、それがずん垂れとるとですたい。いつけ帯もせんなり負うとると、両方の手ばこうやって抱えて負うとらんなん。そうすっと、何にも出来ん事になるです。もうその難儀だけに終始してしまわなければならん。
 ですからね私が「信心は、ズーから行け」とこう言うです。言うならばキリキリと、言うならば自分がキチッとおんぶして、そして人のことでも願うぐらいならばです。両方の手が空いとるとですから、キチッとおんぶしとるから、自分の難儀はもう自分の身体に付いてしまってる。なら両方の手でなら、いろんな御用もさしてもらう、人が助かる手立てのこともさして貰うというて、両方の手でこうさしてもらうから、人も助かると言う事になるのだと。
 ところが自分の難儀でつう一杯だということであったり、ずん垂れておれば、自分の片一方の手しか使えんことになるから、大した御用は出来ないと言う事。言うなら、「信心はズーから行け」とこう言う事なんです。そういうお知らせを頂きましてね、本当に言うならば、キリキリと自分の難儀はもうその難儀じゃなくて、おかげで信心が出来ますというぐらいに、キリキリと自分がこうおんぶしておるような、自分の頂いておるそのめぐりとか難儀でへとへとして要る様な事ではとても人は助からん。
 もちろん自分も本当に助からん。言うならば、今日の御理解で言うと、そういう信心ではお徳は受けられない。ズーからはまってどう言う事かというとね。そこに不平を言わんなん、不足を言わんならん。ここは黙って治めんならんと思う様な事であってもです。ずん垂れとると、此処は言うがほんなこっじゃろうごたる気のしてから、黙って治めにゃならんことでも言うてしまうんです。
 ずん垂れておるとです。言うならば、本当にこの御教えだけは本気で行じねばならんと、言うとってもその言うならば、御教えが行じられない時には、もうずん垂れとる時です。難しいことでもなぁんでもないと。それが自分がキリキリとズーからいっとる時ならば、もう本当にそこを有難く乗り切っていくことが出来る。教えを行じられない時はずん垂れとる時と思って間違いないです。
 その教えがなら決して難しいことを言われとるではないですからね。それは、難しいといえば難しいですよね。黙って治めると言った様な事なんか。けれどもズーから行きゃ、こげん見易いことはないでしょうが。言わんとじゃけん黙って。そして言わにゃおられんごたる時は、それを神様に申し上げることだけのことですから、こげな楽なことはないです。もうズーから行ったら見易いです。けれども中途半端で、片一方の手でどん負てこうしよるけん、それは大変難しいことになるです。
 「いやあ私も黙って治めるてんなんてん、あれはやっぱ大変難しいことですばい」ちこう言う。信心とは、それに撤することなんだから。御教えに。ズーから行っておる時ならば、撤することが有難いです。教えに撤していくことが有難い。ずん垂れとるからそれが難しいだけのことです。だから難しい。「今日もまた失敗しました」と言う時には、ま、っずん垂れとったとまず思うて間違いない。その気になれば誰でも実際出来る、ズーから行きゃ出来る。
 私はお徳というのはね、そう言う風に教えに撤して、自分の持っておる難儀はもう自分の身体に、身に付けてしまう。そして人の面倒も見て上げれる。神様の御用もさしてもらえると言う風に、両方の手が自由自在に使えるような姿勢をまずは、作らなければ、言うなら、誰でも受けられる神徳と教えておられますけれども、ずん垂れた信心では、おかげは頂かれないと言う事です。
 シャンとした信心、言うなら本当の信心をすれば、誰でもおかげは受けられるのであり、お徳が受けられるのであり、あの世にも持って行け、この世にも残しておけると言う事になるのです。だからねどうにもおかげを受けんならんと言う様な、切実な問題を持っておる時には、一つ本気でズーから神様に打ちこまにゃいかんです。そうするとね、その修行が楽です。どんなことがあっても、一つ黙って受けようと。
 昨日どこの先生でしたかね。ホーレン草の、その畑から引っこ抜いたのだけを頂いたという先生がありました。言うならば私が三十年前のことを思うて見てです。もうあらゆる様々な修行をさしてもらうたけども、おかげいただかれん。どうも本当の道が開けん。そこでもう、そういう諸々の行というものは打切り、もう打ち捨ててね。そして自然に起きてくる。私の上に起きてくる。
 例えば難儀とか問題は、黙って合掌して受けると腹を決めた。そして皆さんがいつもお聞きになる様に、金を貸してくれという奴には金を貸してやる。くれという奴にはくれてやる。それこそ半死半生の病人のごたるとば、それこそ抱え連れてこんなんごたるとを、「お願いします」と言うて連れてくりゃ、「ああどうぞ」と言うてそういう病人も預かった。それは今から考えてみてですね、一つも苦にはならなかったと言う事です。問題はズーから行こうと、もう姿勢を作っとるから、矢でも鉄砲でも持って来いという勢いを頂いたんだと思う。その勢いがです。言うなら神様の発動になる元を作ったんです。人間業ではどうにも出来ない問題が解決するようなおかげになってくるわけです。
 神の御発動を受けなければならない。そういう言うならば信心からでなからなければね、お徳は受けられないと言う事。いやそういう信心が、言うなら真の信心だと。真の信心をすれば、私はお徳が受けられると言う事だとこう思う。「信心すれば誰でも受けることができる、みてると言う言がない」もう是で良いと言う事はない。限りがないもう限りなくしかも頂いていけれる信心、そういう信心を一つ基礎としてのおかげ。
為にはならおかげを受けんならんと、淡雪のようなおかげであっても、それはそれでやっぱり受けなければならん。毎日毎日様々な願いをお互い持っておりますから、それにはならキチッとした信心の、節度のある信心。そんならバサラカはまらんでん、そんくらいのことなら当然のこととして出来るわけ。そこからいよいよ親神様の思いを深うを分からしてもろうて、分かれば分かる程、縋らずにはおれない。自分が無力と言う言が分かれば分かる程、縋らずにはおられんのが、いわゆる「願いの信心」だと。
 そういう「願いの信心」と同時に、神の願いを分かり、神の願いを願いとしての信心に撤していく。その内容をです。言うなら末永先生やら富永先生の例を取らせて頂いて、人間業ではどうにも出来ないところがある。それを単車に乗って通れれる。言うならば、もうどうにも行き詰まって、という時には、もうダイナマイトでもしかけて、それを爆破しながらでも前に進んでいかんならようなことがある。それには、お互いがズーから行っておるという時でなかなきゃ出来るこっちゃないと。
 言うなら自分の持っておる難儀だけでもヘトヘトで、言うならばそれをおんぶしておるだけでも、きつか重かという程のことじゃできん。ギューッと自分の身に付けた、キチッとしたおんぶのし方をさせてもうろうて、そして両方の手では人の御用も神様の用も、言うならばさせて頂くというくらいな、言わば信心をさせてもろうて初めて、お徳というものは受けられるのだと。
 だからそういう信心をさせて頂けば、誰でもお徳が受けられるというのだと思います。でなかったら、沢山な信奉者がお徳を受けてないです。だから誰でも受けられるというのは、そういう信心をすれば、真の信心をすれば、誰でもお徳が受けられると言う事であります。「神徳は神様の御信用だ」と久留米の石橋先生は言うておられます。だからあの人は仏様のような人じゃ、神様のような人じゃと。言うならばどんな善人であっても、神様の御信用というものが、だから付くのではない。
 場合には言わば「変人」と言われても、これは本当だと言う事をです。それを貫き通す程しの迫力が生れてくる。そういう信心に神様の、言わばあの氏子ならという、言わばおかげを頂かれるのじゃないかと思います。信心にはどうしてもそういう一つの神様に迫っていくというのですから迫力です。迫力のある信心を一つ身に付けて行きたいですね。
   どうぞ。